INTERVIEW

2010.01.25

菅原光博

マイルス・デイビス、B.Bキング、マディ・ウォーターズ、ジェームス・ブラウン、マーヴィン・ゲイ、レイ・チャールズ、フェラ・クティ、ボブ・マーリー… 天才、カリスマ、巨匠、キング、神…今なお、そう呼ばれ続ける数々のブラックミュージックの立役者達の”live”(生きた姿)をフィルムに納め、彼らと同じ時代に生きる奇跡を記録し続けて来た日本人カメラマンがいたのをご存知だったろうか?

ジャズに導かれブルース、ソウル、そしてレゲェ、ワールドミュージックへ、時代と共にファインダーを広げ、ミュージシャンと向き合いシャッターを切り続けた男、菅原光博。

静岡での個展開催を記念して、視察に訪れたBLUE NOTE1988にてインタビューを決行。写真を始めたきっかけ、ボブマーリーとの出会い、静止画に懸ける想いを語ってくれた。

写真を始めたきっかけっていうと?

菅原:僕は家が鉄工場で工業高校出て、工場を継ぐつもりだったんだけど、 高校を卒業したぐらいから、カメラ買って、写真好きな友達と花とか 山とか、鉄道ブームみたいのがあってSLを撮ったりしてた、 ちょうどその頃からJAZZにはまって聴き始めて、札幌に米国の有名なジャズミュージシャン達が来るライブがあって、聴きに行きそこにカメラも持っていき撮り始めたんですよ。

それは無許可で?

菅原:そうそう、その頃はそんなに撮影はうるさくなくて。それに当時一眼 レフとか持ってるのも珍しくてプロっぽく見えたのかも。まぁお客さんに迷惑にならないようにおとなしく撮ってましたよ。

その頃「日本カメラ」っていう雑誌で毎月アマチュアの写真コンテストみたいのをやってて、そこに撮った写真を応募したらたまたま3位に入選したんですよ。

それで、「お、これはちょっとオレ写真良いかも知んないな」なんて思って、それに一度田舎を出たいってのもあって。その頃はもうかなりジャズに入れ込んでたから、「ジャズを撮るカメラマンになれないかなぁ」って思ってた。

それも珍しいですよね?ある程度、「音楽」とかにカテゴリーをしぼる事はあっても、「ジャズ」ってそこまで絞り込むのは?

菅原:そうですね。他には少なかったですね。 だいたいカメラマンになるっていうと写真の専門学校に行って、そこで基礎を勉強して、それからコマーシャルにいったり、風景にいったり、ファッションにいったり、なんでしょうけど、僕 の場合はとにかくジャズのカメラマンになりたかった。ジャズを撮りたいって思ってた。

それで、リュックに寝袋とカメラをいれて、一万五千円ぐらいを持って、家出をするようにヒッチハイクで東京へ出て行ったんですよ。

まぁ出て来てからは一週間ぐらいはジャズ喫茶巡りみたいのして、お金がなくなったらバイトして、ジャズのコンサートがあれば切符買って行き、ミュージシャンの写真を撮るってのを半年ぐらいやってたんですよ。

もうジャズ一筋で、それも独学で、見よう見まねで、やってたんですけど、ある日撮り溜めた写真を持って「SWING JOURNAL」(ジャズの専門誌)の副編集長の所に持っていったら、「ジャズだけで喰ってける人なんていないよ。他にも撮ってる人はいるけどみんな他の仕事もしながらやってるんだよ。それでもやる気があるならやってみればいい。」ってことで、フィルムと腕章をくれるようになって、それで取材班として堂々と撮れるようになった。やっぱり取材腕章があるとステージ裏や楽屋でも撮れるし、世界が大分広がった。そうしてるうちに雑誌にもだんだんと自分の撮った写真が雑誌に載るようになった。

で、一年くらいした時に、ニューヨークでの取材に誘われたんですよ。それが「NEWPORT JAZZ FESTIVAL」っていう世界で一番大きなジャズの祭典だったんですけど、当時はまだまだ技術的には未熟でカメラも2台ぐらいしか持ってなくて、プレッシャーもあったし、その時は「もう一年待ってくれ」って言って辞退したんですよ。

それから一年、ストロボだったりいろんな技術を練習したり、カメラも新しく買ったりして、74年に晴れてニューヨーク取材にいったんですよ。 それで10日間 「NEWPORT JAZZ FESTIVAL」を取材して、その後も1ヶ月ぐらいいろんな有名や新しいジャズクラブを回ったり、大物や新鋭ミュージシャンを取材した。

当時はソウルやジャズがとにかく熱くて、それから3年連続でニュー ヨーク取材に行った。

その後、いろいろあって「SWING JOURNAL」をクビになって、今度は「ミュージックマガジン」でやるようになったんですよ。

それから今まではジャズだけだったのがブルース、ロック、ソウル、 そしてレゲエやブラジル、アフリカンミュージックと聴く幅が広がっていったんですね。ミュージックマガジンでは30年ぐらいずっと撮って来たけど、その時代時代の音楽をオンタイムで撮って来た感じだったね。とまぁ、大体の流れはこんな感じです。

なるほど。それにしてもブラックミュージックなんですね?

菅原:そうだね!まぁジャズから入ったんだけど、ミュージックマガジンに行ってブルースを撮るようになった時に気づいたんだけど、ブルースってジャズよりももっともっと黒いんですよ。黒人っぽいんですよ。ジャズって言うのはどっちかって言うととても都会的で、洗練されていて、技術的にもエリートな感じがあるんだけど、ブルースはもっと庶民的というか、着てる服も雰囲気にしても黒人のそのまんまが出てるような音楽なんですよ。ソウルはもう少しカッコいいポピュラーな部分があるんだけど、歌ってることは共通する部分もあって、 そういうのを見ていて「あぁオレが好きなのはブラックミュージックなんだな」って改めて思いましたね。

で、その後にレゲェっていう革新的な音楽が来るんだけど、サウンド的にはブルースやソウルほど洗練されたものではなかった。とてもシンプルなリズムな音楽だったんだけど、何がすごかったかっていうとメッセージだった。

ジャズやソウルやブルースはアメリカの音楽だよね。でも、レゲェはそうじゃなくて、もっと黒人のルーツのアフリカに近い気がした。

やっぱり中でもレゲェは特別なインパクトがあったんですか?

菅原:そうですね。例えばジャズにしたら僕は最盛期の10年遅れて生まれて来た訳ですよ。コルトレーンは既に死んでいて、ある意味リアルタイムじゃなかった。中学生の頃に聴き始めたソウルのオーティス・レディングも大好きだったけど、飛行機事故で早くに逝ってしまった。そんな中でボブ・マーレーがレゲェとやって来た時には「これだ!」と思ったわけですよ。オレが出会うべき人はこの人だったんだってね。 もちろん音楽的にもソウルの歌い方とロックの反骨精神、それが全く新しいリズムに乗っかって来たっていうレゲェの衝撃はあったけど、 個人的なタイミングとして、ボブ・マーレーのカリスマ性やメッセージ、その人とリアルタイムで出会ったってのが一番のインパクトだった。 コルトレーンもオーティス・レディングも時間的に合わなかったけど、オレはこの人とぶつかったぞ!ってね。 その頃は僕も写真を撮り始めて7年目ぐらいで、ステージのミュージシャンを撮る技術ってのが身に付いていたんだけど、そこで自分のスタイルって何だろう?自分の写真って何なのかな?って思った時の事だった。ボブを見て、この人は一生で一回会うか会わないかぐらいの人だってわかったわけ。それでその実態を確かめようとしてお金をかき集めて、 全米ツアーで回ってたバークレーのライブに行ったんですよ。

今までもマイルス・デイビスやJ.Bも見て来て、やっぱり凄い人ってのはステージで見てもパワーが本当に凄いわけですよ。でもボブを見た時にそれを更に上回る神様を背負ってやってる凄さってのを見ちゃったわけですよ。

そこで衝撃を受けて帰って来て、1年後には日本に来る事になるわけですね?

菅原:当時ボブ・マーレーに入れ込んでた東芝の三好さんって人がいたんだけど、アメリカで撮って来た写真を見せたりしてて、彼の番組でボブを紹介する時に使ってもらったりしてた。

ある日、三好さんから「ボブ・マーレーの来日が決まったよ!」って電話があって、それでもうこれはバッチリ撮るしかないって。その公演にはテレビ局も撮れないって事だったから、その映像の記録として残せるのは写真しか無かったわけですよ。それでなおさら気合いも入って。

公演は全部で6回になったんだけど、三好さんの計らいで6回全部撮れるようにしてもらった。普通はレコード会社の取材で行っても一回しか撮らせてもらえないんですよ。だから最初の公演はいっぱいカメラマンがいたけど、それ以降の5回は僕一人だけだった。 それにしても6公演を全て撮るってのはかなりのエネルギーがいるわけですよね。だからこっちも一ヶ月前から玄米食にしたり、瞑想をしたりして集中力を高めて挑んだ。

実際、どんな感じだったんですか?

菅原:一日目、撮ってると「バチッ」って来る瞬間がある訳ですよ。「あ、今好いの撮れたぞ!」って手応えがある程度わかるんですよ。 で、終わって帰ってすぐ現像で見てみるんですよ。そうするとここで一発来てるなってのがわかるんですよね。それで次の日また行 く訳ですけど、そうすると昨日はアレが撮れたから、今日はこっちの角度から狙おうってなるんですよ。それで3日目はまた違う角度から、そうやって4日目にはまた撮り逃したショットを、って6回もやってると大体撮りたい絵ってのは撮りきれちゃうんですよ。 あんな事は後にも先にも無いし、それをやったのは僕しかいなかった。 ボブ・マーレーのヴァイブレーションと「バチリッ」っと合う瞬間があるんですよ。彼はずっと動いてるから、それに合わせてこっちも狙っていくんだけど、ボブのチカラに導かれて撮らされたのか?ってぐらいの瞬間があった。

後から思えば、その一年後には病気で倒れて、調子を崩し始める、ガンでそのまま逝ってしまう訳だけど、来日時は勢いもピークだったし、会場は他の公演で何度も足を運んだ事のある新宿厚生年金ホール、渋谷公会堂、中野サンプラザだった。まるで自分のスタジオの用に写真が撮れた。しかも6回もみっちり。 やはりあんな事はもう2度とないだろうな。自分の人生の中のタイミングといい、あれから30年たった今でもそう思いますね。

その時の写真の数々が今回BULE NOTEにも展示されます。 見る人たちに何かメッセージはありますか?

菅原:今はライブ映像等も沢山あって、YouTubeなんか見ればライブの様子なんて写真よりよくわかる。PVや映画もなんでも、僕らが普段見ている様な動いている絵なんですよね。でも、写真っていうのは普段見れない止まった瞬間なんですよ。止まったときの絵っていうのは写真でしか見れないから。止まってるからこそ、動いている時に は見えないところや、そこをじっくり見れて何かを感じるってのもあるわけ。そこに時間が凝縮されていて、写真でしか見れないエネルギーを感じる事もある。ボブ・マーレーにしても動く映像で見ても凄いんだけど、髪を振り乱した瞬間、飛び上がった瞬間、光と重なった瞬間、止まった瞬間だからこそ見れる凄さもあると思う。そこに凝縮されたエネルギーを感じて欲しいですね。また違ったものが見えるかもしれない・・・。

ー 今まさにその瞬間の数々がBLUE NOTE1988を始めOne Blood、アヤナイ食堂、CONNECT.の4店舗に展示されている。

ボブ・マーレーがギターをかき鳴らす瞬間、他にもレゲエを代表するアーティスト達のステージ上の刹那、ジャマイカの人々の生活のワンシーン、時代を写したストリート、、、シャッターが切られたその瞬間、そこに凝縮されたエネルギーと共に額の向こう側の時空を是非お楽しみ頂きたい。

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